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ザイン・文・インタビュー:内田 麻衣子
今回のインタビューは以前インタビューを行ったインディアンやアイヌ、そしてハワイの現地人との交流に従事し、画家である福田YUKIさんからのご紹介を受け、トシコさんのサンディマスにある自宅でインタビューを行った。


――生い立ちと、日本でマンガ家になったキッカケは?

トシコ・ムトー さん 小2まで鎌倉で育ちました。鎌倉の海岸で毎日、素足で遊んだことが精神的に大きな影響あり。疎開先の受験男子校「山形東高」卒(学生数、男子300人に女子10人位の割だった)。神田の共立女子大卒後、こしかけのつもりで日本冶金工業{株}に就職。会社関係の礼状書きとか、自分には向いていない仕事だった為、居眠りを頻繁にした。課長さんに「それはマズイ」と忠告され、眠くなるとナイフで机に穴を掘る。その穴がどんどん増え、社内中の噂になり、みんなが見にくるようになり、遂に常務にまで知れ渡ってしまった。常務室に呼ばれ、「あなたの噂を聞きましたが、穴掘り以外に何か作品はありますか?」と聞かれた。実はその常務がたまたま絵心のある方で、川端康成先生が名付け親の、日本橋にある"此花画廊"の常連であった。美人姉妹2人が経営するクラシックな画廊で、財界人や作家などのインテリに人気があった。私は、白い紙なら何にでも描いていたイタズラ画きを常務に見せ、彼はそのイタズラ描きを画廊の姉妹に紹介し、その画廊の推薦で、当時、日本で初の女性週刊誌であった「女性自身」の発刊2週目に掲載された のが、私の最初のマンガ「小さな恋人」であった。23歳だった。

私は3~4才の頃から放浪癖があり、野生の雑種犬「ジョン」とよく家出をし、母は度重なる捜査願いで警察と消防署のおとくい様になってしまったとか。だから父親は「絶対この子を絵描きにしてはいけない」と宣言。絵描きになったらヒッピーになるか、キチンと女子美あたりに入ったとしても、東大生とつるんで全学連騒ぎで警察に引っ張られるのが落ちだからと・・・。だから、父親に見つからないように、エンピツで走り書きの絵を描いていた。だから私の絵は、油絵とか水彩ではなく、漫画になったんでしょうねえ(笑)。「何故、漫画家になったのか?」と聞かれたら、父親に「ぜっーーたい絵を描くな!」と言われたことと、会社で居眠り防止に、机に穴を掘ったのがきっかけの二つですね(笑)。

ところが、掲載された途端に、日本全国から編集部にハガキが殺到。(当時はe-MAILなんて無かった)。編集長は 「なんだかこれはおかしいね~。じゃあ来週もやってみるか?」と、いうことで、8年間も連載が続いてしまった。テレビや雑誌のインタビューが殺到し、商社を退社後は、あれよあれよという間に、ピーク時には25社くらいの仕事をこなした。朝、仕事の依頼電話でたたき起こされ、渋谷の「ジロー」というシャンソン喫茶店でコーヒー朝食し、そこで1日中、原稿を描いたり、インタビューを受けたり、常連の学生達とだべってアイデアを出したりした。疲れると原宿、青山、表参道などを散歩。あの界隈は私のパリだった。毎日がたのしくて、仕事という実感はなく、一寸、ツキ過ぎていると直感的に感じていた。だから、青春マンガの「小さな恋人」は、20代で辞めようと思っていた。何故なら、マスコミという世界は、アイデアが無くなった時、ぼろ布のように捨てられるという現実を、周りで沢山見ていたから。

20代の後半に結婚。普通の女性になろうとした。愛する一子も神より授かった。しかし、自分がまだ静まらないうちに結婚生活に落ち着こうとした為、染まりきれず、貫けなかった。相手方は大阪で三百年以上も続く旧家で、全くひの打ち所のない良い人だったが。


【略歴】九州生まれ、共立女子大卒業後、20代はマンガ家として女性週刊誌「女性自身」にマンガ「小さな恋人」を8年間連載する。ピーク期には、1ヶ月に週刊、月刊、新聞、単発など25誌以上をこなす。30代ショウデザイナーとしてウォルト・ディズ二―社に8年間勤務。東京デズ二―ランド及びフロリダのエプコットセンターやデズ二――ワールド等のデザインコンセプトを担当。コダックパビリオンの円形ホール壁画を完了。40代、突然、直感を全部失い肉体的には健全だが感覚的には廃人同然の生活を約10年間送る。50歳で、自伝「人生は片道切符」を執筆。ベストセラーとなり、テレビ映画化される。55歳で、感覚を取り戻す為に、家1軒を売り、当時アメリカでトップタンゴダンサーであったフェリックス チェベツ氏に入門、毎日8時間アルゼンチンタンゴだけを猛練習。4ヶ月目にカリフォルニアのボールルームでアルゼンチンタンゴの特別最高賞を受賞。同年カリフォルニアやワシントン等で4回優勝。60代で、14歳年下の某国亡命者と結婚。愛を満喫。 現在、ロサンゼルスから北東のサンディマス在住。

日本で「小さな恋人」が一躍大ヒットになった。
主人公、タローとハナコ

エピコットセンターでデザインを担当

55歳でアルゼンチン・タンゴを初め、数々の賞を総なめ

自叙伝「人生は片道切符」

トシコさんのお母さん、マサコ・ムトーさん


――デイズ二―に入社したキッカケは?

トシコ・ムトー さん 結局、31才の時に日本の仕事を100%止め、スーツケース1個で渡米。太陽の豊かなカリフォルニアに落ち着き、約1年後に離婚成立。手持ち金もなくなり、仕事をしようと決心。"ワーキングビサ無し。英語ダメ。タイプ駄目。車運転ダメ。紹介者無し" という条件下で、デパートメントのカード売り場で、カリフォルニアのカード会社名を発見。早速そこに電話し、「グリーテイングカードの絵を描きたい。入社試験を受けさせてくれ」、と申し込み、採用されるとすぐ、会社に歩いて通える距離のアパートメントに引越した。

ところで、カード会社に入社したものの、私は絵の基礎がないから、ある限界までしか描けない。それで会社に「もっと会社の役に立ちたいから、アートセンター(当時、ロサンゼルスでナンバーワンの美術学校であった)に奨学資金を出してくれ」、と頼んだら、ホントに出た。その代り、成績がC以下だと奨学金が取り消されると言われ、入学するとすぐ先生の所に飛んでいって、「私は奨学金で来ているので、落第すると困る。先生よろしくお願いします」と必死で頼むと、「あ~、そのくらい大丈夫だよ」と言われ、救われた。通学は昼間働いているカード会社の友人2人が毎回、アートセンターの夜学まで送りとどけてくれた。あの頃は体力もあったし、気合も入っていたし、一生懸命だったせいか、いろんな人の助けをいただいた。"石の上にも3年"で、カードのコツも何とか身につけたので、当時、全米最大のグリーティングカード会社「ホールマーク」のアートデイレクターに電話した。作品を郵送すると確実性が薄いと思い、アポイントメントをとり、ミズリー州まで飛行機で飛び、自分の作品を見せて採用され、ホールマーク社から初めて「Having A friend Is.・・ 」という小さな絵本を出版できた。それで自信をつけ、次にステップアップしようと、1972年ハリウッドにあるHanna Barbera (ハナ・バベラ)という、アニメーションの会社に転職。{当時は全米最大のアニメーション会社で、Scooby Dooなどを作っていた}。この時、はじめて「モーションピクチャー カルトーンニスト」のユニオンに加盟。1974年、アメリカ経済が突然崩れ、会社が半年間閉鎖。他のアメリカ人たちはレイオフ(臨時解雇)に慣れていたが、私は全く経験も知識もなく、他のアニメーション会社といえば、ディズニー社しか思い浮かばなかった。しかし、当時はデイズ二ー社は縁故採用しかしないので有名だった。

丁度その頃、私の妹がUCLAのエクステンションコースに留学していて、彼女が電話で「学生用のブルトンボードに、ディズニーの副社長が、スクールガールを求めているけど行ってみる?」と言ってきた。私は、あまり仕事の内容も分からず、「やってみまーーす!!」みたいな感じで始めたのが、犬と猫に餌をやり、散歩させる仕事だった。副社長宅にはメイドさんがすでに2人いて、プール付きの、スペイン建築の素敵な邸宅だった。私は住み込みで月に75ドル。食事は冷蔵庫の中のものを適当に食べてよいとのこと。私は昔から掃除が下手だったので、メイドさんにチップをあげ、自分の女中部屋を掃除してもらい、冷蔵庫の中の自分が好きな物を食べた。ところが、私が好んで食べたものは、副社長夫人がハズバンドの為に特注した最高級のものばかりであったらしい。(笑)。たちまち副社長夫人の逆鱗に触れ、副社長の書斎に呼ばれた。

「あなたは、ここに何をしにきたのですか? あなたはメイドになるために来たのではないのでしょう?」と、温厚な副社長の質問。「はい、実は私は漫画家です。ディズニーで仕事をしたいのです!!」と、私。

「では作品を見せてください。ディレクター会議にかけてあげましょう」と副社長。

それで結局、月75ドルのペット係りは3ヶ月で首。ディズニーの本社で月1000ドルのストーリー・スケッチングという仕事{アニメーション映画の絵つき脚本}に就いた。秘書つきだった。「これはメチャクチャついている」と感じた。

時を同じく、ディズニー社は東京ディズニーランドと、フロリダのエプコットセンターという超2大プロジェクトをスタート。そして、その極秘シンクタンク用に「WED」という別会社を設立した。私はある日、間違ってその「WED」の建物に紛れ込み、慌てて出口を失い、事もあろうに、デズ二―のショーデザイナーの神様と尊敬されているマーク・デイヴィス氏{デイズ二ーランドの、カリブの海賊、スモールワールド、お化け屋敷、など数え切れないほどのキャラクターを創作。}の仕事場の真中に入ってしまった。ハっと気がついた時にはデイヴィス氏が私の目の前に!!。「ア・ア・・・私は貴女のフアンです。貴女の下で働かせて下さい」咄嗟に叫んだその言葉は私の本音であった。そして、私は突然、ショーデザイナーとして「WED」に引き抜かれた。

初期のショーデザイナーは10人足らずで、クレオパトラ(1963)のProduction Designerのジョン・デキュア氏や、アメリカ初の宇宙飛行士のアラン・シェパード氏など、全米トップのそうそうたるメンバーで、私は女性一人。36才で最年少。しかし、私はWEDが必要とした建築学のヶの字も知らず、アートデイレクター長のジョン・へンチ氏は困り果て、「こうなったら、チームを組まずに一人で出きる仕事を彼女にさせるしかない」という訳で、私はフロリダのエプコットセンターの大円形ホールの壁画デザインを一人でまかせられた。考えてみれば、これも奇跡的なツキであった。


――アメリカでの転機は?

トシコ・ムトー さん  このテーマパーク建設で、ディズニー社は史上最大の借金をつくり、ワーナーブラザーズに買収され、社長{故デイズ二―氏の娘婿}も含め1750人の社員が一斉解雇された。その時、私は40歳。終身雇用の筈のアメリカでの仕事を失った。 日本で仕事の再出発をしようと、女流作家(有吉佐和子さん)に頼んだら、「そうか、じゃあ、おいで」と、呼んで下さり、朝日新聞にマンガ連載が内定。私は感謝のつもりで、ヨーロッパに特注した高級スコッチを編集長と彼女に贈った。これが彼女の逆鱗に触れ、「編集長ごときと女帝の私を同じにした」と、連載予定は突然キャンセル。ここで、私は日本へのカムバックを失った。

 当時、私はまだ結婚していた。夫との生活は、自家用機でサンデイェゴのデル・コロナード・ホテルに飛び朝食。その足で午後はサンフランシスコに飛び買い物。週末は、アカプルコとかプェルト・バャルタに、いつでも飛べるように、スーツケースには、水着とイブ二ングドレス、コットンのジーンズを常備していた。愛されており、充実していると信じていた。その夫が突然、私の知らぬ間に、大きな財産をそっくり整理し、前妻と二人で、7年間のヨット航海に出てしまった。当時、カリフォルニアには「7年間捕まらなければ、罪は無効になる」という法律があった。ここで、私は愛も失った。 ついでに、アーチストの命ともいえる本能的直感を完全に失なった。全てが40歳の時に起こった。 


――どうやって乗り切ったのですか?

トシコ・ムトー さん 私の自叙伝「人生は片道切符」の中に出てくる "仏様"という名のハズバンドと結婚。生きた屍のように、何もせず、ぶらぶらと10年間、時間をつぶした。丁度10年経ち、50才の時に、海竜社の名編集長である下村のぶ子社長に「自分のことだったら書けるのではないか?」と励まされ、12月1日に日本に飛んでホテルで缶詰になり、29日間で書き上げたのが、「人生は片道切符」だった。編集長が毎日ホテルにいらして、私がその日書いた四〇〇字詰め原稿30~40枚をはしから校正。最後の校正は国際空港のベンチで完了した。ゲラが出来た時点で、2時間スペッシャルのテレビ映画化が決定。本はベストセラーになった。

その自伝を書いた頃から、やっと何かをしたいという気力が出てきた。過去10年間、医者からも宗教からも答えを得られなかったが、自分のことを知りたい願望は捨てきれず、「四柱推命」を独学で勉強し始めた。その結果、分かったことは、何と、「20代と30代の20年間、私はツキまくり、40代の10年間は死ぬ」という答えだった。それで「自分はそうなる運命であった」と言うことを理解でき、気持が大変リラックスした。では頭脳がダメでも体はまだ存在するわけだから、体を動かせば、以前の感覚が戻るかも知れないと思い立ち、55歳の時にアルゼンチン・タンゴを始めた。もう一度、生き返りたかった。

まず、当時アメリカでタンゴのトップダンサーであったフェリックス・チェベッツ氏に入門。レッスン代が1時間65ドルと高額。それで印税で購入したサウスベイのコンドミニアム3軒のうち1軒を売却。毎日8時間づつ、レッスンを受けた。4ヶ月目にエメラルド・ボールと言うカリフォルニアのボールルーム・コンペで、スープリ-ム・アワードという特別最高賞を受賞。その年は、ワシントンとカリフォルニアの4つの大会で毎回受賞。将来、シニアの部門で全米大会チャンピオンを目指していた。ところが、タンゴパートナーのフェリックス氏が、常時、不特定多数の女性にぞろぞろ追いかけられていて、とてもじゃないけど、こっちの方がくたびれた。特に「20年間も彼を追いかけ続けている、というひたむきな女性」に出会った時、パートナーにも、タンゴにも、急に熱が覚めてしまった。そんな矢先に、北方インドのパンジャブ人{政治亡命者}で私の最後の夫になったギルに出会った。浅黒い皮膚、太い眉毛の奥にギロギロ光る黒い瞳、見上げるような長身。彼は14歳とし下だった。

彼との10年間の結婚生活は素朴で純粋で、私は心の傷も名誉欲も財欲もウロコが落ちるように、ぱらっーと取れた。清々しい人間の原型に戻ったような気持ちだった。四柱推命によれば、ギルとの相性は、「財運を全部失って、愛を取る」か、「財運を失いたくなかったらギルと一緒になってはいけない」と出ていた。私は、一度死んだ身だし、財産なんて天国に持って行けないから・・・と「愛」をとった。破産しましたけどね。{笑い}。でも、ほんとに幸福だった。

そんな訳で、この四柱推命は、私の場合、大変役に立った。でも、運が向いている時には、なまじっか見ない方がいいと思う。悪いことをきくと、人間は動揺しやすいから。何か本当に困った時、何時、如何に切り抜けることが出きるか、という前向き利用にすれば、大変参考になると思う。従来の日本の占星術は、暗いイメージを相手に与えて、恐怖に引きずり込む傾向があった。そうではなく、ちょうどカレンダーをみて「あーそうか、何月頃から冬が来るな、じゃ、ぼちぼち冬支度をしようか」と心の準備をし、冬がくれば、必ず人生の春もくるわけだから、決して焦らず、まてば安全なのです。


――なるほど、でも来年から、あなたの人生は最悪ですよと四柱推命で出たら、えっーどうしようとかなり落ち込みますよね。

トシコ・ムトー さん でもね、必ず正しい抜け道があるんですよ。例えば、この時期はお金の星が回ってこないから金儲けに走らないで、バケーションに使ったり、勉強にエネルギーを費やしたり、ボランティア精神の姿勢なら大安全、とか。俗にいう「空亡」の時期は冬だと考えれば、そんな時は、慌てて種をまいても、凍死して、芽は何も出ない。春になれば、こちらが忘れていても、芽が吹き出し、花が咲きだします。だから正しいサイクルを納得すれば、全然怖いことなど何にもない。


――成功に必要な要素を集約すると?

トシコ・ムトー さん 一に健康、二に健康、三、四に健康。

  •   健康であれば、頭脳も体も正常だから、正常な発想が出来る。
  •   健康であれば、発想したことを、実行できる。
  •   健康であれば、実行を続行できる。だから成功する。


――健康をキープするのは何が大切なんでしょうか?

トシコ・ムトー さん 私の場合は、絶対に、十分な睡眠。お腹が空いたら食べること。それと太陽に当たること。だから、旅行先で印象に残っているのは、ギリシャとかキューバとかエジプトとか。


――えっ、いつエジプトに行かれたんですか?

トシコ・ムトー さん アメリカに渡る以前の25歳の時。本当はヨーロッパに行く予定だったんですが、昔はパンナムでヨーロッパに行くにはベイルートで一度給油があった。そのベイルートで飛行機のドアが開いた瞬間に、パッーアと目の前にそれこそトルコブルーの真っ青な空が飛び込んできた。想像では得られない明るく美しい色だった。それを見た瞬間にヨーロッパが頭からパッーと消えてしまった。ベイルートからエジプトに入り、この土地に骨を埋めようと思った。アラビア人の柔道家と恋に落ち、婚約しそうになったので、滞在が長くなるから、ビザを変更する為に日本領事館にいった途端に、「あー、来たぞー」といって捕まっちゃった。日本じゃ私の捜索令状が、外務省、パンナム、日赤からでていて、「今すぐ日本に帰ってください。そうでなければ、強制送還になります。」と言われた。私はハンドバッグだけつかみ、荷物は全部エジプトのカイロに残し、「必ず帰って来ますからねー」と、空港でぼろぼろ泣いた。エジプトの大きな柔道家たちが、「一度ナイルの水を見た者は、必ず、また戻ってくる」という民謡を歌って見送ってくれた。その直後に、中東戦争が勃発した。


――私はトシコサンほどの行動力をみんな持ってないと思うんですよね。ディズニー社で働きたいからディズニー邸に住んじゃうとかね。例えば、カンザスまでインタビューにいっちゃうとかね。みんな多分頭の中では考えているけど、飛行機にのるまでには行かないと思うんですよね。だから、それが実際行動を起こしてやる人とやら無い人の違いだと思うんですよね。それが、後々大きな差になっていくんだと思うんです。それでは、絵を描く上でいつも気をつけていることはどんなことですか?

トシコ・ムトー さん 20代、30代というのは思った時に、もう既に行動になっていた。私は猪年でB型なので。B型というのは、「豚もおだてりゃ木に登る」というくらい、褒められるとほいほい行動してしまう。だから、嘘でもいいから褒められたほうがいいんです。だから褒めてくれる人とはうまく行くけど、けなす人とは自然に離れていくようです。


――でもその方がいいですよ。ネガティブエナジーを持った人からは、よい影響を受けないから、出来るだけ離れていったほうがいいですよ。自分の環境作りというのも、とても大切だと思うんですよね。

トシコ・ムトー さん いい気分、いい思い出、いい音楽が大切。私はジョージ・ガーシュイン(George Gershwin)(1898~1937)とか、スペインの音楽、バレンシア地方のギター、カルロス・モントーヤなどが好き。


――デイズ二―やハナバベラなど、社風とかは、それぞれどんな感じでしたか?

トシコ・ムトー さん ハナバベラにいる時は、映画やテレビ関係の人の出入りが多くて、毎週{毎日?}のようにパーティー三昧で、私はアメリカにパーティーをしにきたのだろうかと思った位。(笑)。

ディズニー社の名物は、ウォルト・ディズニー氏が朝の7時に社員カフェテリアで朝食を取り、社員はだれでも重役、下っ端、関係なく、ディズニー氏と直で意見の交換をすることが出来たそうです。その頃の習慣が残っていて、みんな朝が早く、帰りは4時に退社していたワーナーブラザースに乗っ取られる以前のディズニーは、仕事をすること自体がほんとに楽しくて、それ自体が私にとっては勉強であり、パーティーであり、生活でした。偉い方たちは、みんな穏やかで、博学で人間が出来ていて、礼儀正しかった。夢みたいな会社だった。


――人生における3人の影響者は?

トシコ・ムトー さん

哲学的影響

  •   仏陀  「幸福とは苦労の無いことではなく、苦労を苦労と感じないことである。」
  • キリスト 「艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生みだす。」
  • 御守護神様「強い信念と善意による愛と真心をもって歩むならば、必ず真の救いが得られる。」
体温のぬくもり的影響
  • ジョン      「3~4才の頃の親友。野生の雑種犬。私に動物的直感を植え付けてくれた。」
  • 祖母{母の母}「夫が相場に手を出し倒産。育ち盛りの子供4人をかかえて、針と糸の行商を始め、後に北九州一の京染め呉服店を築く。104歳で他界。成せば成るの人。」
  • 母       「70歳で夫{私の父}が他界後、パステル画を習い始め、77歳に東京渋谷で最初の個展。91歳にフランスのパリで個展。作品の1点をフランスのジャック・シラク大統領に贈呈。大統領より感謝状をいただく。決して焦らず、毎日最善を尽くす人。」


――これからアメリカに飛び出そうと考えている人へのアドバイスをお願いします・

トシコ・ムトー さん どんな欠点だらけの人でも、何か一ついいところがあるわけです。それを信じて、表に出すこと。アメリカ人というのは、とっても正直に、出すと受け入れてくれます。おじおじしたり、怖がるとダメ。自信をもって話すと受け入れてくれます。


――アメリカに馴染む秘訣は?

トシコ・ムトー さん  人を褒める。嘘をつく必要はない。どんな人でも良いところはあるので、それを褒める。お互いに嬉しくなって、どんどんドアが開いていく。ブスな人でも、上から下まで眺めれば、素敵なサンダルをはいている。それを褒めてあげる。よれよれのシャツを着た青年でも、TATOOがすごかったらそれを褒めてあげる。自分自身に対しても頻繁にいろんな角度から褒めて上げる。


――なるほど、英語が母国語でない日本人にとって、会話の切り出しにはそれはすばらしいことですね。

トシコ・ムトー さん 人に褒められていやな人は一人もいない。ガン{銃}じゃなくて、褒めてあげることは、最高の武器。


――アメリカに住んでいて、日本の良いとこ悪いとこがよくみえると思うんですよね。それに関してはどうですか?

トシコ・ムトー さん アテネオリンピックでみたのですが、若い人たちの体つきは伸びやかですばらしい。それにみんないい目をしていて、生き生きと自信をもっている。


――これからアメリカに飛び出そうと考えている人へのアドバイスをお願いします・

トシコ・ムトー さん どんな欠点だらけの人でも、何か一ついいところがあるわけですよね。それを信じて、表に出すことです。アメリカの人というのは、とっても正直に出すと受け入れてくれてます。おじおじしたり、怖がるとダメですが、自信をもって話すと受け入れてくれるんですよね。


――バブル崩壊後に日本では投身自殺者が過去最高で、窃盗や放火などの物騒な事件が多いですが。

トシコ・ムトー さん 「平和」にたどり着く前の過程だと思う。9・11の世界貿易センター事件や、イラク戦争の惨事も、長い目でみれば中近東という世界が、やっと、西洋文化の世界の中に浮き彫りになってきて、これから、世界がひとつになる過程を、今たどっているのだと思う。日本でも昔、明治維新で2つのパワーが命がけでぶつかり合って、若者たちが信じる事のために命を失っていった。あの過程を通過したお陰で日本が一つになった。同様に、世界はかならず一つになると信じている。だから、今の日本は明治維新第2期のような感じ。いろんな人がいろんな事をしでかしながら、だんだん国が落ち着いていく。発展途上の時。傷ついたり、和解しながら違う文化の国と国が、やがて和合していく。その過程の時期だと思う。


――トシコさんが始終持ち歩いていた「太閤記」とは?

トシコ・ムトー さん 私は、アメリカでゼロからスタートした。秀吉もそうだった。家が貧しく、自分自身を奴隷に売ったぐらいだときいている。そういう人があそこまで成功したのだから、私も生き延びられると信じた。


――座右の言葉は?

トシコ・ムトー さん

  • 「一に健康、二に健康、三、四に健康!」
  • 「潮が満ちれば船は小指で動く」
  • 「成るように成るがよろしく候」


――アメリカで生きる人へのアドバイス

トシコ・ムトー さん

  • 自分の長所を自分で知ること。
  • 自分の長所を好きになること
  • 自分の長所に自信を持つこと
  • 自分の長所を伸ばす{磨く}こと
  • 自分の長所を相手に知らすこと
  • 自分の長所をおおいに活用すること


――未来の計画{抱負}は?

トシコ・ムトー さん 四柱推命を英語で紹介したい。でも、私のライフパターンは恋愛でも仕事でも「ある日、突然何かが起こって、そのはずみで、全く予期しなかったことが、バババーーーーンと実現してしまう」というような事がよくあるので、現時点でも次に何が起こるのか予測出来ない。例えば、気がついたら沖縄あたりで絵本をこつこつ描いているかもしれないし。(笑)。今、現在、毎日、その時その時、最善を尽くしていれば、何が起こっても、受けて立てるから、それで良い。

【関連リンク】
トシコ・ムトーさんにメールを送りたい方はinfo@jinaonline.orgまで

 

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